ジャガーは2019年、他の高級自動車メーカーに先駆け、初の電気自動車・I-PACEを発表。更なる飛躍を目指す。
クルマのミッションである「移動」は、人類と浅からぬ縁がある。人類は二足歩行で移動することにより進化したとされ、やがて内燃機関を発展させて、地球上のほぼすべてに移動範囲を拡大し、繁栄した。移動のテクノロジーは人類にとってもっとも重要なものの一つに数えて異論はないだろう。
そんな移動は今、革命の時を迎えている。それをもたらすのが、次世代型電動車いす・パーソナルモビリティ『WHILL(ウィル)』開発者でWHILL社CEOの杉江理氏だ。そこで当サイトでは「人間とは何か」を追究する“走る哲学者”為末大氏との対談を実施。人間と機械、生物と無生物が交差する点に生まれる新しい可能性を探っていく。
なぜ車いすは社会から「浮いてしまう」のか
為末:これがWHILLですね。一般的な車いすとはやはりイメージが異なります。率直に言ってカッコいい。
杉江:ありがとうございます。為末さんがおっしゃるように、WHILLは「車いすに見えない」ことを目標にしているんですよ。
為末:テクノロジーには社会で「浮いてしまう」ものと「溶け込める」ものがあると思っていて、特に従来の電動車いすは前者のイメージでした。
杉江:まさに。従来の電動車いすを使う人たちに話を聞くと、やはり「車いすに見える」ことそのものがイヤだと答えるんですよ。どうしても社会の中で浮いてしまう。
そこで僕は「車いすが浮いてしまうのはなぜだろう」と考えてみたんです。為末さん、なぜだと思いますか?
為末:うーん、難しいですね。
杉江:理由はシンプルで「“いす”が道を走っているから」だと思うんです。
為末:なるほど、本来は止まっているものが動いているから。
杉江:はい。だから車いすが“いす”に見えたら、もう違和感なんですよ。
では、「車いすに必要な要素とはなんだろう」と考えてみると、それは座面と背もたれ、そして車輪です。電動ならエンジンもないといけない。
これらの要素をもとに、電動車いすを再構成したのがWHILLです。僕たちには明確なデザインフィロソフィーがあって、それが「車いすに見えない」ことなんです。
為末:移動手段の一つとして生活に溶け込ませるわけですね。
杉江:それがやりたいことです。僕たちは今、世界でビジネスを展開しています。とあるアメリカのユーザーからおもしろい話を聞きました。
その方いわく、「普通の車いすに乗っていると“May I Help You?”と声をかけられる。でもWHILLに乗っていると、“What is this?”“Cool!”と言われる」と。「浮いている」ではなく、乗る人が「カッコいい」という印象に変わったわけです。
福祉や介護のためというよりも、一人用の乗り物という新しい領域のテクノロジーを生み出したという意識です。
セオリー度外視でも開発の「落とし穴」に陥らないワケ
為末:WHILLはどのように開発されているんですか?
杉江:まずはコンセプトですね。身体障害者や高齢者を含むすべての人にとって、移動を楽しくスマートにすることを掲げています。
こういう漠然としたコンセプトがあって、でもそこから先は、開発のセオリーからするとめちゃくちゃ。デザインとエンジニアリングがほぼ同時に進行するんです。
為末:作詞と作曲が同時みたいな。
杉江:ははは。そんなイメージで、とにかく自由です。デザイン側はものすごくクリエイティブな、時に「これはないだろ」みたいな案も出してくる。
メカ(エンジニアリング)側はそれを見て「ここは実現できるんじゃないか」という部分をガチャガチャ作っていく。もともと創業者たちが全員作り手なのもあって、こういう開発形式をとっています。
為末:しかし、そうすると市場のニーズから外れてしまうこともあるのでは?
杉江:プロダクトアウト型の開発の落とし穴ですよね。それを防ぐために、弊社の場合はもう一職種、マーケットを見ている人間もいるんです。
デザイナーやエンジニアが自由にやりながらも、マーケターが市場をしっかりと意識して調整していく。
為末:2019年1月にはWHILLの自動運転システムを発表しましたね。将来的には、歩道や空港での導入を目標にするとか。
杉江:スマホとWHILLを連携し、安全な無人タクシーにするようなイメージです。
歩行困難者は、日本だけでもおよそ900万人いるとされています。高齢化の影響もあり、これからもその数は世界的に増えていくでしょう。移動手段の変化の時は今後、必ず訪れます。
人間の選択は「エモーショナル」である
為末:一方で、デザインや機能は市場への合理性を追求すると均一化して個性がなくなってしまう、という懸念もあるのですが……。
杉江:バランスは重要ですね。WHILLはたしかに一人用の乗り物として最適化しようとしているので、WHILLのようなデザインが今後、スタンダードになっていく可能性は十分にあります。
一方で、そもそも人間が完全に合理的ではないじゃないですか。人間の行動には必ずエモーショナルな要素が入ってきます。
例えば、いくら強度が十分なパイプがあっても、そのパイプだけで作られた車いすにはおそらく人は乗りません。なぜなら不安定に見えてしまうからです。そうすると今度は、不安定に見せない「機能としてのデザイン」が必要になるんですね。
為末:そこに個性を発揮する余地がある、と?
杉江:そう思います。本当は機能的に十分でも、あえて引っかかりを残すような。
為末:昔、好き嫌いの感覚を研究している方と話をした時に、ものづくりで欠点と思われるものをすべて省いていって“なんの問題もないもの”を作ったら、なんのクセもなくなって、誰もハマらないものができあがったとおっしゃっていたんですね。
これはプロダクトでいうと「クルマはジャガーが好き」みたいに、ユーザーがちょっとしたクセを愛し始める、みたいなことかと。
杉江:為末さんの好きな「クセ」ってあるんですか? 例えば乗り物で言うと。
為末:うーん、あらためて言語化するのは難しいですね(苦笑)。実は見た目や機能にあまりこだわりはなくて、強いて言えば、動作したときの「ギュイーン」という走りの感触。私の母親が運転しにくい感じじゃないとイヤ。
杉江:まさに「クセ」ですね(笑)。でも僕はそれ、モノを作る上で大事だと思うんです。
>>後編に続く(6月公開予定)
(構成:朽木誠一郎)