ジャガーは2019年、他の高級自動車メーカーに先駆け、初の電気自動車・I-PACEを発表。更なる飛躍を目指す。
クルマはガソリンから電気へとエネルギー源をシフトさせ、そのメカニズムを大きく変えている。一方、サイボーグという言葉に代表されるように、ヒトもまたテクノロジーを駆使することで、従来の在り様から脱却しようとしている。クルマとヒトは共に進化の只中にあるが、ならばこそ好奇心がうずく。これらは100年後、どのような「形態」になっているのだろう。
人間と機械、生物と無生物とがダイナミックに交差する時代に、その起源を今一度振り返ることは、未来を占う上で重要な意味を持つ。そこで当サイトでは、日本の生物学の第一人者である福岡伸一氏を招き、「人間とは何か」を追究する“走る哲学者”為末大氏と交わした議論をここに紹介する。
「自己複製」だけでは受け止めきれない生命の在り様
為末:さっそくですが、生物と無生物を分けているものとは何なのでしょうか。
福岡:それは「生命とは何か」という定義の問題ですね。生命とは何か、生きているっていったいどういうことなのかは、有史以来の最大の謎。ギリシアの哲学者から中世の神学者、現代の科学者に至るまでみんな問いかけている。そして、時代によってその定義はもちろん、大きく変わっています。
現代科学、すなわち私たちが生きているこのパラダイムにおいて、生命とは何かと問われた場合、端的に回答するのであれば、その本質は1953年にワトソンとクリックが解明したDNAの二重らせん構造にあります。生物学用語は難しく聞こえるかもしれませんので、私はこれをよく“カメラのフィルム”にたとえるんですよ。
為末:なるほど、現像ですね。
福岡:そう、ポジフィルムとネガフィルムの合わせ鏡のように、情報を二重に保持している。その二つが離れると、ポジがネガを、ネガがポジをそれぞれ複製。コピーがたやすく作成できる、と。もちろん、あくまでもこれはたとえですが。
為末:わかりやすいです。
福岡:でも、今の学生には通じないんですよ(笑)。フィルムカメラを使ったことのある人がほとんどいないので。
大事なのは、コピーできるのが二重らせんの最大の特徴であること。そこで現代科学では、生命を「自己複製できるもの」と定義したわけです。ただし、その定義は生命の一つの側面しか見ていない。単にコピーできるから生命体だとするのであれば、コンピュータウイルスやAIだって、生命ということになってしまいますよね。
しかし、われわれが生命と呼ぶ生きとし生けるものは、もっと「やわらかさ」や「みずみずしさ」など、生命に備わっている躍動感のようなものと共にあるはずです。それはいったい何なのかを、私はずっと考えてきました。生命を捉え直すこと。それが生物学者としての、私のライフワークなのです。
その中で私が編み出したコンセプトとは、「動的平衡」。つまり、絶えず動きながらもバランスを取り続けている状態です。この状態に至るためには、停滞に甘んじずに、まず自らをあえて壊す。破壊によって生じる不安定性により、次のものを作り、前に進む、というのが生命の特徴。それを私は動的平衡と呼んでいるのです。
「一番効率のいいもの」が生き残るわけではない
為末:なぜ自然界では「先に壊す」ことが必要になるのでしょう。
福岡:それはエントロピーを捨てるためです。すべてのシステムはそれが持続する限り、エントロピーが増大した状態、つまり混沌に近づきます。秩序があればそれを壊すような力が働く。これが自然界の原則です。放置すればシステムが破綻してしまいますから、どこかでこのエントロピーを捨てなければいけない。
例えば、組織にも動的平衡の力が働いています。常にメンバーが入れ替わりながらも、一定のブランドが保たれている。学校がわかりやすい例で、学生を受け入れるだけでは、教師によるコントロールができなくなり、やがて物理的にもパンクしてしまう。だから、3月になると一定数が卒業するわけです。その空いた枠を埋めるために、4月に学生が入学してくる。こうやって新陳代謝をしていると言えます。
為末:停滞や破綻を回避するために、先に壊すわけですね。アスリートのトレーニングにも通じるところがありそうです。
一方で、スポーツであれば、完全に監督にコントロールされているようなチームよりも、選手が自主性を持って練習に取り組んでいるチームのほうが生き生きして見えるし、かえって成績もよい、ということもあります。秩序立った状態は、生命的ではない印象も受けますが……。
福岡:おっしゃるとおりです。生命にはたしかに「秩序」があるけれど、それは共産主義国のマスゲームのように、それぞれが言い渡された役割を完遂するという意味での秩序ではない。
生命の秩序とは、常に遊び、ゆらぎをその中に内包しているものなのです。なぜかと言うと、環境の変化や外界からの干渉などに絶えず対応できないと、動的平衡は保てない。生命が既知のイベントにのみ一対一対応で動くように決まっているなら、天変地異が起きたときに乗り越えられません。
社会性昆虫の中には、絶えず「サボって」いる個体がいる……なんて話を聞いたことがありませんか。アリやハチの2〜3割は忙しいフリをしているけれども、実は何もしていない。しかし、この2〜3割が大事で、例えば外敵がやってくるとか、急に巣が壊れたとか、集団に異変が起こったときに、この遊軍的な個体がカバー、バックアップをする。
動的平衡を維持するために、システムは柔軟でなければならない。もちろん、混沌の状態になると破綻してしまうわけですが、完全に秩序立った状態も理想ではないのです。というのも、環境が一定であればもっとも効率がいいのですが、我々のいる環境は常に移り変わり、厳密には一度たりとも同じことは起きないものです。生命の歴史を振り返ると、あらゆることが起こっています。酸素濃度が上がったり下がったり、隕石がぶつかったり、繁栄した種が絶滅したり。このような環境の変化に対抗するには、混沌と秩序立った状態の中間的な、遊びやゆらぎを内包した状態のほうが、結局のところより強靭なのです。
為末:つまり、変われるものが生き残るのであって、一番効率のいいものが生き残るわけではない、とうことですね。
福岡:そうです。社会における多様性が重要なのも、同じ理屈です。いわゆるマイノリティや社会的弱者に該当する方々は、社会をより強靭にし、持続可能性を高めていく上でも不可欠な存在と言えるでしょう。
人間の可能性はAIには予測できない
為末:しかし、アスリートとしてのトレーニングを思い出すと、「先に壊す」というのは骨が折れることでもありますね……。
福岡:「動き続ける」ならどうでしょうか。例えば、クルマが動き続けるためには、アクセルを常に踏んでいる状態、すなわち加速が必要ですよね。アクセルから足を離すと、途端にクルマは減速してしまう。すでに十分に動いてはいるけれど、これからも動き続けるための加速。これこそが、生命の本質的な営みだと言い換えることができそうです。
為末:図らずもクルマとの一致点が浮かびました(笑)。
福岡:クルマは非常に生命的だと思いますよ。クルマのおかげで人間には不可能な速度で走れる。これは義足のような身体の拡張の延長であり、その体験を楽しむべきものだと思います。自分の身体との連続性がスムーズな、つまり自分の身体とシームレスであるかのように振る舞ってくれるクルマは、非常に魅力的ですよね。
為末:その意味で、ジャガーという自動車メーカーが動物のジャガーをデザインに取り入れている点はおもしろいですよね。
福岡:私は昆虫少年だったのですが、虫を眺めていて感じるのは、自然があらゆるデザインのリソースだということです。生物にある流線型のフォルムには、自然が何十億年もの時間をかけて磨き抜いてきた機能面での合理性がある。私はそういうものに美を感じるので、ジャガーは素直に、格好のいいクルマだと思います。
その意味では、ボンネットの跳躍するジャガー。あれも非常に生命的だったので、このI-PACEもそうですが最近のモデルで廃止になってしまったというのは残念ですね(笑)。
為末:生物はクルマのようなテクノロジーを駆使して無生物的に進化し、一方の無生物はジャガーのように生物を取り入れて進化する。そんな乗り入れが起こっているようにも感じますが、この先その境目はどう変わっていくと思われますか。
福岡:今、起きていることをもとに次に起こることを予想するのは、AI的な予想ですよね。将棋や囲碁など、履歴があることを組み合わせて、最適な解を選ぶという発想が有効な分野はあります。しかし、生命の可能性を考える上では、AI的な予想はあまりなじまないのではないか。かえって生命の可能性を制限してしまうのではないか、と私は思うのです。
なんと言っても、地球の生命史は38億年です。100年なんて生命にとっては一瞬に過ぎず、1000年先だって大した未来じゃない。1000万年先や1億年先、酸素濃度はどのくらいで、地球はどちら向きに回転していて、どちらが南極で北極で……といったことは、まったく想像がつかないわけです。
だから私はむしろ、まったく予想がつかないことにロマンを感じます。未曾有の出来事、履歴にないことへも対応してきたのが生命の特徴ですから。人間も、人間が生み出すテクノロジーも、まったく予想がつかない進化を遂げてくれるだろうと期待したいですね。
一見、意味のない「伝統」「文化」の裏側に……
為末:先ほど生命の「履歴」というキーワードが出ましたが、人間って、「伝統」や「文化」を重視しますよね。進化という観点から、これらの概念にはどのような意味があるのでしょうか。
福岡:DNAの二重らせん構造について説明しましたが、親から子、子から孫という世代交代によって伝えられるものって、実はそう多くないんですよね。DNAに書き込める情報はかなり限定されていて、髪の毛や肌の色といった形態だけです。
日本には「鳶が鷹を産む」ということわざがありますが、鳶が鷹を生まないようにしているのがDNAの役割とも言えます。そして、この鳶がどんな鳶になるかを決めるのは、DNAではなく、環境なのです。同じ遺伝情報を持つはずの一卵性双生児であっても、育つ環境によってまったく異なる行動様式を取ることからも、これは明らかです。
一方で、個体が生き残るには、環境の情報も何らかの形で次の世代へ伝達されなければなりません。どこに食料があるかとか、逆にどこは危険だから近づいてはいけないとかは、DNAには当然、書き込めない。そこで、人間は伝統や文化を発明した。これによって、必要な情報をDNAの外に保存することに成功したのです。特に衣食住、つまり命に関わる伝統や文化には、その環境下で生きるための重要な情報が反映されていると言えるでしょう。
為末:なるほど。ただ、生活には直結しない伝統や文化もありますよね。
福岡:テクノロジーの発展によって、形だけが残っている伝統や文化もあるでしょう。例えば、特定の地域や宗教においてダブーとされている食材は、調理や保存の方法が未発達だった時代に、体に害があることが理由で禁じられた可能性も考えられます。このような伝統や文化は、今となっては直接の生活の役には立たないかもしれませんね。
さらに、そういった直接の利害を超えた伝統や文化も存在します。インカ地方に生息するタテハチョウには、まさにインカ模様をしている種類がいます。これはもちろん、蝶がインカ模様を模倣したわけではありません。その地域の自然をもとにデザインが形成された、と見るべきでしょう。同様に、アフリカのあるコガネムシの模様と、ネイティブたちのメイクの模様がそっくり、という例もあります。
為末:生活の役には立っていないけれども、そこに住む人たちにとってはそこに住んでいるルーツを示す証になっている。
福岡:はい。伝統や文化の中には、その地の自然を表しているものがあって、なんだかおもしろいですね。そういったものは、人間の心の奥にある美のイメージと結びつき、たとえ生活と関係がなくても、廃れずに残っていくのでしょう。
人間を人間たらしめるのは、生物学的な「遊び」
為末:ジャガーのデザインやコンセプトにファンがついている一因にも、人間が生まれつき持つ自然への憧憬があるのかもしれませんね。一方で、ジャガーのような、ある意味でクセのあるプロダクトは、好みが分かれるところでもあります。ヒトの「好み」は、生物学的にどう決まるのですか。
福岡:どういう色、食べ物、人、ライフスタイルが好きか、というヒトの好みは、基本的に子どもの頃の体験によって決まります。と言うのも、人間だけが非常に長い子ども時代を持つ、不思議な生物なんですよね。男と女に分かれて生まれてくるものの、しばらくは生殖能力がなく、第二次性徴まで十数年のモラトリアムがある。
他の生物はだいたい、一直線に成熟するんです。サルは5〜6年も経てば、ネズミに至っては生後数カ月で性的に成熟してしまう。では、性的な成熟を迎えるまでの期間に何が起こるかというと、異性を確保するためのさまざまな行動や、異性を巡る争いをしなくてよくなる。子ども時代は性にとらわれる必要がないので、あらゆることがまずは遊びとしてできる。つまり、好奇心に基づくムダなことができるわけです。
為末:スポーツはまさにそうですね。他の動物がパートナー獲得のために体を動かす時期に、自己実現などのより高次の欲求を満たすために体を動かしている。
福岡:まさにそうですね。そして、この子ども時代が脳を鍛える大事な期間となるのです。経済の法則や社会のルールのようなさまざまな人間活動は、生物学的な視点においての遊び、つまり本能的な欲求によらない活動をベースに発展してきた。だから、子ども時代の体験が大人になってもその人を支え続けるのです。その積み重ねにより、ヒトの個性が育まれていく。「遊び」が人間を人間たらしめていると言っても過言ではありません。
為末:考えてみれば、人間は必ずしも生物として合理的な行動ばかりを取るわけではないですからね。
福岡:本来、生物とは「種」の社会です。ドーキンスの「利己的遺伝子論」というテーゼが有名ですが、個は種を保存するように運命づけられている。種の保存こそが生命にとって最大の目的なので、個は一種のツールにすぎません。例えば、昆虫や魚類では、数千個の卵を生んで、そのうちのわずか数匹が子孫を残す、なんてことがざらにあります。でも、それで種が保存されるなら構わない。それが基本的な「生命の掟」なのです。
人間だけはその生命の掟、遺伝子が命じることの外側に立てた、非常に変わった種であると言えます。人間は種、つまりホモ・サピエンスを存続させるために個体がいるという考え方を捨て、種よりも個、それぞれの命が大切だと位置づけることに成功した。人権の起源はそこにあると、私は考えています。
一方で、環境汚染や食糧問題など、個が増えすぎたことで他の生物にだいぶ迷惑をかけてしまっている現状もあります。人間は地球上に最後に現れた生物なので、他の生物がいないと生きていけませんが、他の生物はそうではない。その事実をもっと謙虚に受け止めなければいけないとも思います。
部分最適化の罠を避け、生物としての体に学ぶ
為末:福岡先生はある意味、人間という存在全体を一歩引いて見ていらっしゃいますよね。
福岡:それはそうかもしれませんね。生物学者として、種としての人間という視点は、常に持っています。
為末:ふと思い出したのですが、現役時代に、左のアキレス腱の痛みが取れないことがあったんです。いろいろと試しても、なかなか治らない。でもあるとき、自分のフォームをビデオで観たところ、右肩が回転しているのに気づいたんです。こういう動作は対角線上のパーツに負担をかけるので、右肩の回転を止めてみたら、アキレス腱の痛みが引いて驚きました。
ここから連想したのですが、いま私たちは人間社会の様々な問題を解消しようとして、部分最適化の罠に陥っているように感じます。個別の問題に対処しようとするばかりで、社会全体をどうしていくかの議論ができていない。どうすればこの行き詰まりを打破できますか。
福岡:為末さんの例で言えば、物理的に離れて見えるパーツであっても、生命の中では全体が相互に作用していると考えた方がいいと思いますね。人間はついつい、分節的にものを考えやすい。まず、この傾向に自覚的になるのがスタートです。
我々の体は、アキレス腱や半月板といった部品が、ロボットみたいに合体してできているわけではない。もしアキレス腱が痛んだときに新しいものと取り替えられるとして、それで治るかというと、おそらく根本的な原因を特定しない限り、また新しいアキレス腱が痛みだしますよね。
人間の営みである以上、社会についても同様だと私は思います。複雑なシステムゆえに、シンプルだったり部分的だったり、わかりやすいモデルに飛びつきやすい。一旦そこを我慢して、全体像に向き合わなければいけないでしょう。
為末:そのためには何が必要だと思われますか。
福岡:自然はいつでも参考になりますよ。それは何も、山に行ったり海に行ったりすることだけではない。我々はこういう人工的な都市に住み、あらゆる人工物に囲まれています。だから「たまには自然が必要だ」なんて言うことがありますけど、私はちゃんちゃらおかしいと思っているんです。私たちは、常に自然ともっとも身近に接している。それが何か、おわかりですね。
為末:自分の体、ですね。
福岡:はい。こんなに貴重な自然はないわけです。だから自然、身近なところでは自分の体について考えを巡らすことで、きっとヒントを得られると思います。
(構成:朽木誠一郎)
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